ナスミスウイルソン4号機
明治31年、英国ナスミスウイルソン社製のC型タンク機関車。運転整備重量21.4t、1100系の標準的機関車。国有化で、1223になった。津山に陸蒸気がやってきた。のは、この4両の機関車であろう。
撮影日・場所不詳 大橋一央氏撮影
湯口 徹氏所蔵
ボールドウイン8号機
明治34年、米国ボールドウイン社に発注した1C型テンダ機関車。運転整備重量42.0t、この機関車の登場で、岡山津山間の長距離運転が円滑になった。一方で、60km足らずの岡山津山間のテンダ機関車の採用は少し大げさだが、将来の米子延長を考えての投入だったかもしれない。
1940.10.7 岡山 大橋一央氏撮影
湯口 徹氏所蔵
キハ二181
昭和11年加藤製。最初キハ二160形で計画。後に形式分離。荷物用の扉は、なくなっている。自重:18t、定員102名、16540×2728×3722.燃料タンクは当初、75Lだったが、吉備線で燃料切れが発生し、140Lに変更したとの記述があります。
この車両も津山線を走り、岡山・津山間の2時間切り実現に貢献か。(昭和15年の時刻表参照)昭和25年に水島鉄道へ払い下げ
1940.10.7 岡山 大橋一央氏撮影
湯口 徹氏所蔵
キハニ181との関連は不明
「中鉄九十年の歩み」より
撮影者不詳
貨客混合列車
明治43年の時刻表(久保豪氏「津山線・吉備線の百年」)、昭和15年時刻表(「中鉄九十年の歩み」)にも混合列車が明記されているが、途中駅の貨車入換等で所要時間が多い。開通直後の事故の記載にも混合列車運転を伺わせるものもある。
写真「中鉄九十年の歩み」より
撮影者不詳
中國鉄道の客車
ボギー客車の導入に積極的だったと記載があり、写真もそうであろうか?
写真「中鉄九十年の歩み」より
撮影者不詳
C11 77と給水塔
以前は、福渡駅にあった給水塔と蒸気機関車。ご存知の様に、SLは水を石炭を燃やし蒸気を発生させ走ります。C11はタンク式で、水も石炭も機関車に積むため、比較的短距離用の機関車で、中間の福渡で、水を補給したのでしょう。
『みまさか鉄道ものがたり』より
お召し列車牽引のC11 80
昭和37年、岡山国体の時の、お召し列車に就役した同機(津山)。10月22日とある。小学校時代、津山線沿いにあった校庭で、お召し列車に小旗を振って歓迎した思い出が・・・。
C1180は、津山線のラストランも担当した名機で、一度会津若松区に転出し、同地でもラストランを担当した。津山の南小学校の校庭に展示。その後、津山駅前に。
『みまさか鉄道ものがたり』より
岡山機関区で憩うC11
C11は、吉備線・津山線で共通運用されていた。給水中なのだろうか岡山機関区に留置中の後ろ姿。
背後の高架橋は、新幹線のものだろうか、蒸気機関車が廃止された、昭和47年に、新幹線が岡山迄開通した。
埼玉 光野さん提供
キハ41500
昭和28年には岡山に配置。ガソリンカー(キハ41000)の機関をディーゼルに換装した、機械式気動車。吉備線を中心に運用されたが、津山線も、福渡まで運転された。昭和29年時刻表参照。
写真は、元車が同じ41000形の片上鉄道
キハ3003.現303形
出典:片上鉄道保存会保存車両ガイドブック
撮影:藤山侃司氏
片上鉄道についての詳しいことは
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キハ17の配置
昭和29年11月、岡山に配置。液圧式の気動車で総括制御が可能。片運転台で、キハ17が便所有、16が無。昭和31年の時刻表では10往復の気動車列車。岡山・津山間最速(快速相当)82分。戦後最初に津山に来た気動車です。
写真は、1956/10京都駅キハ45000
1962年昭和32年形式の改番されキハ17に撮影:湯口 徹氏
あくまでも推測ですが、昭和30年前後の気動車導入の姿です。
キハユニ15
昭和37年、岡山に配置。片運転台で、荷物・郵便輸送を担う車両。先頭は非貫通の湘南型。後には、キハユニ18、26という貫通形の車両配置。
イラストは「遠い汽笛」様承認済
キハユニ16
岡山には、配置実績がないようですが、キハユニ15もこんな感じただった思います。15は扉が車両中央部にもありました。片運転台で、荷物・郵便輸送を担う車両。先頭は非貫通湘南型。
写真は、キハユニ16-4(1958) 鳥栖 撮影:湯口 徹氏
キハ55系
昭和31年から導入された車両で、2機関。1機車はキハ26。この機種の導入の成功により、一般形のキハ20の導入に繋がった。写真は、昭和39年の京都~中国勝山の急行「週末やまのゆ」林野駅停車中。後年、同名の列車が、広島~勝山を山陽・津山経由で走っている。津山線・姫新線の「ひるぜん」も同形式ではないだろうか。
写真は美作市教育委員会提供
キハ20
昭和32年から製造の両運転台車、岡山には33年から配置。キハ40系が登場後も併用された。この2機関型がキハ52で最も遅くまで活躍した。写真は、赤穂線の40周年記念列車で運行中の水島臨港鉄道のキハ20形。「懐かしの準急列車」の中には、昭和36年大阪駅に停車中のキハ20の「準急みまさか」の写真もあり、初期にはキハ20の準急運用があったようだ。車内中央部の円柱状の排気筒が特徴。
(写真:津山まなびの鉄道館で撮影)
DE10ディーゼル機関車
昭和46年の無煙化時より、客車・貨物列車で使用開始、57年の客車列車廃止時まで、定期運用された。現在も岡山電車区に2両在籍し、配給、工臨等で、津山線にも入ることがある。
DE10:入換・支線運用等の汎用機関車。軸重も軽減された、1250PSのセミセンターキャブ形で昭和41年より708両製造。
旧型客車
蒸気機関車時代より使用された車両群で、ドアは手動、デッキ付きクロスシーとで、トイレ、洗面所付でした。津山線で運用された機種は断定できないが、写真のオハ35形も運行されたのでは?この車両は、姫新線で運行されていた津山配置のオハ351227で昭和55年に国鉄を廃車となり片上鉄道に譲渡され、ホハフ3002と改番され、通勤、通学輸送に活躍。津山の客車配置はこちら
(写真は柵原ふれあい鉱山公園で撮影)
津山線のキハ20系気動車
昭和45年頃の法界院駅。キハユニを先頭にした、岡山行。窓形状から、キハユニ26そして、キハ20の順でしょうか?
埼玉 光野さん撮影
津山線のキハ10系気動車
昭和45年頃の法界院駅。上のキハユニを先頭にした、岡山行の後部にはキハ17のトイレ無車両のキハ16が連結されていました。キハ20と一緒の画像があれば、段差が目立ったでしょう。ホームには、腕木式信号機を操作する信号梃子小屋が見えます。
埼玉 光野さん撮影
津山線を行くキハ181
昭和47年豪雨は、岡山県北に多くの被害をもたらし、伯備線は道床流出などで、1ケ月間不通になった。時は新幹線岡山開業で、陰陽連絡特急となった「やくも」。津山線経由での迂回運転が実施された際の写真である。
岡山~津山~新見~米子だったのだろうか?家の近くで見た45年前の記憶が確かだった証。トンネル通過は大変だったと推測される。
埼玉 光野さん提供:法界院~備前原
この後の車両(昭和50年代以降)
◇蒸気機関車
昭和46年迄C11で運行されていました。(客車列車:4往復、貨物:4往復)。客車列車は昭和57年6月迄、DE10ディーゼル機関車で牽引されていました。姫新線のC58の無煙化もほぼ同時。姫新線の勝山方は普通列車の気動車化は比較的早かったのですが、姫路方は遅れました(客車列車で運行されました。)
◇気動車(普通)
キハ40系が導入(昭和50年代初頭)迄、上記のキハ10系、20、26(準急から転用)が主で、40系導入後も混血編成で、大きさが異なりデコボコでした。本数が少ない代わり、編成両数は多く7両編成もあった記憶があります。
◇気動車(急行)
津山線は、新幹線岡山延伸後はキハ58系による「砂丘」が陰陽連絡を担いました。姫新線も、中国道が未開通でしたから、京阪神へは「みまさか」、「みささ」が主力で、高度成長期とも重なり長編成の列車が行き来し活況を呈しました。「週末やまのゆ」等の温泉列車も運行されていました。
(イラストは「遠い汽笛」様より)
津山線では、昭和46年の無煙化以降も、DE10牽引の客車列車が、キハの増備(40系の新造、 伯備線の電化による気動車の転用)まで走っていました。
客車は、所謂旧型客車で、姫新線や芸備線に見られた50系客車(レッドトレイン)は、走りませんでした。
◆津山の配置車両の変遷
1962年
昭和37年
鉄道友の会編 客車配置表

主力となるオハ60系は、木造客車を鋼体化改造したもの。
1970年
昭和45年
鉄道ファン編集部編客車配置表

主力となるオハ61は、オハ60の窓幅を700⇒1000の広窓化。
1971年
昭和46年
鉄道ファン編集部編客車配置表

主力となるオハ35系は鋼製客車。昭和45年には、全国に1122両を有していた。
スエは、救援車
オハ35外観
(柵原鉱山公園)
白熱灯のままの旧型車両車内
(大井川鉄道ホハフ33)
旧型車両の洗面所
(大井川鉄道)
旧型車両を牽引して走る津山線蒸気機関車のさよなら列車(撮影:光野さん)